春畑セロリのワガママ部屋

ウズベキの旅、そして恩師逝く

6月は、ウズベキスタンへの旅という得がたい日々がありました。日本大使館訪問や摂氏45度の砂漠の遺跡放浪、陶器や布のショッピング、長距離ドライブで田舎の日本語学級のこどもたちを訪ね、歌や踊りや弁論大会で歓待を受けたこと、彼らに声をそろえて「こころパレット」を歌ってもらったこと、ガキ大将が歌詞をキリル文字に書き起こして一生懸命覚えてくれたことetc.……、忘れ得ぬ思い出は数々あって、灼熱の砂漠につけた足跡同様、さらさらと心の底に残って、風に舞っています。

つい数日前まで、そのことについてここに書くつもりでいました。でも、今週、期せずしてとても胸を締めつけられることが起こり、それは、SNSでみなさんに「いいね!」をいただくようなことでも、共感のコメントをいただくようなことでもなく、それでもやはり、自分自身のためにどうしても書いておきたいことなので、この場を借りて、少しだけ書くことにします。

中学時代の恩師が亡くなりました。
大学卒業後ほどなく私たちの中学に着任した先生は、生徒と歳がひと回りしか違わず、私たちにとっては、担任であると同時に親しい兄貴でもありました。国語教師で野球部顧問。文学青年でスポーツマン。マジメでヤンチャで誠実でテキトーで、歌が大好きで バンカラで涙もろい熱血漢でした。中学時代に私が書いていたしょーもない長編学園小説をいつも愛読してくれて、テストの余り時間に答案のウラに書いてた短編小説にも、あきれ顔の朱ペンで感想をくれました。
卒業してからはOBの有志でワンダーフォーゲルのサークルを作り、毎春、毎夏、先生と一緒に合宿。風呂無しで1週間でも10日でも、重いテントと鍋をしょって歩いたなぁ。私の逆境適応能力は、あのとき培われたに違いない。この頃の仲間や後輩たちとは、今でも毎年何度も先生を囲んで呑み会をして、そのたびに、未だに山に登っている先生の体力と明るさに驚かされ、私たち全員が年老いてくたばっても、先生だけは永遠に元気に違いないと信じてたのに。
ライブやトークコンサートをすれば、必ず駆けつけて「お前は7組の星だな」と褒めてくれたっけ。音楽教育がらみの小説を出版したときは誰よりも熱烈に読んでくれて、「おいっ!」と言って、作中の主人公を真似て、手の甲で拳と拳をクロスさせる挨拶を実演してみせてくれたっけ。そのときはっきり気づいたのでした。私の教育理念は、このひとから受け継いだんだ、と。
訃報が届いた翌日、寂しくて寂しくて、涙をこらえながら地方出張にでかけました。生徒の誰も見舞いに来させず、生徒の誰にも弱音を吐かぬまま、半年間、闘病して逝ってしまった先生。亡くなったちょうどその時間帯に書き上がった1曲があります。きっと、この曲を見るたび、弾くたびに、先生の優しさを思い出すのだろうな、なんてつぶやきながら新幹線に揺られていました。
先生と出会ったからこそ、今の自分がいる……。そう信じている卒業生は少なくないに違いありません。理屈ではなく、損得でもなく、常識でもなく、「心」で解決しろ。そう先生は教えてくれていたのじゃないかな。どうしようもない壁にぶつかったら、あの溌剌とした日々、汗臭いシャツと泥だらけのリュックを身にまといながら、遠い山並みをみつめて一途に歌った歌を…、澄みきった朝の空気の中で、先生や仲間たちと一緒に何十回となく歌った歌を口ずさんで乗り切ろう。

♪ 今日は 野を越え 明日 山越えて 限り知られぬ わが旅よ